死にまつわる話は、話題にしてもらうことで、まずまずの結果なのかもしれない。
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「患者にも家族にも配慮がない」「誤解を招く」厚労省の「人生会議」のPRポスターに患者ら猛反発
自分が、極めて深刻な事態だったと今もって自覚はないのだが、「死」に直面したとき、一瞬でも、家族と離れ離れになる、そういう事実に思わず泣きそうになったことを覚えている。
意識がある状態で、よもや自分に心筋梗塞のような重篤な事態が訪れるとは、思いもしなかったが、
心房の半分がマヒ状態で微細動を起こしていて、血液検査で判明はするものの、心臓の筋組織が溶け出すマーカーが出たら、後遺症が残るかも知れないと、体にチューブを何本もつなげられたとき、
相方に2度と会えなくなった場合、自分がいかにあなたに感謝していて、あなたを一人ぼっちにしないために必ずあなたを看取る側にいる約束をしたことや、どんなに迷惑をかけて、それなのに何もあなたの喜ぶことができなかったし、期待に応えることができなかった思いなどを
なんにも伝えることができない。
いやむしろ、そういう思いを抱えてもなお、まだまだ一緒にいたい。
これがまた、自分の我が儘なのか、どうか、聞いても答えないだろうけど、それでも、叶えたい自分の思いを
なんでちゃんと言葉にできなかったんだろうか。
最愛の人間を亡くして、遺された側の人間が、どう悔いても叶えることができない色々な思いやら、悲しみやらの気持ちを
こういう「表現」で、表に出されて良いとは、とても思えなかったんだろうと。自分を含めて。
逝くことがわかっている人間を前にして、「人生会議」みたいな軽めの表現で、「言ったら向き合わなくてはならない現実」を、どうにかただ見つめてほほ笑むことで、保っていた寂しさや辛い思いを、どうして言うことができるのかとか、
少なくない、今、その場にいる方々や、癒えないその時を、悔いながら延々と過ごさざるを得ない方々など、
その思いは、そう易々と乗り越えることができない今を生きている方々にとって、
この「人生会議」は、あまりにも雑な、単純で、乱暴な言葉に映ってしまったのかもしれない。
今でもそういう経験を経た今でも、意識しなければ、相当、死は遠いもので、身近な人との生活も、相当緊張感でさえ失われている。
だからこそなのかもしれない。こういうださいけれど、強い言葉で打って出なければ、神経にかかりもしない話なのかもしれない。
話題にできることが、まずまずの結果なのかもしれないとすれば、良しなのかも。