どうして人は人を殺してはいけないの?
すでに自分の話よりも、より的確な発信をされているかもしれないが、毎年、どこかのタイミングでピックアップされる。
人はどうして人を殺してはいけないの?
ざっくり言って、人は脆い。
種としてこれだけ繁殖できたのも、要は、頭がいいとか、道具を使えるからとか、結果論的に言って大きかったと思うが、
それを育んだものは、「集団」として生き抜いてきたという事実だろう。
当たり前だが、集団として生き抜いてきたという事実は、絶大なる勢力として、結果、70億もの「個」を展開できるに至った。
しかしながら、今もってなお、世界をぐるりと見まわしてみれば、それでもなお、行われている事実がある。
ほぼほぼ、人は、殺す側と、殺される側に分かれる。
しかも、殺す側は、なぜか少数で、殺される側は決まって多数だ。
どうイメージをしたところで、自分は殺される側だ。
大昔は、集団の生存を確保するために、あらゆる「事象」に体を張って「個」を犠牲にしてきたと思われる。
自然災害も、極めて甚大な生存の危機なる要因であろうが、嫌なのは、同じ形をした人の集団に「蹂躙」されることだ。
多分、長い歴史を通して、人間どもは、そういう経験の積み重ねの中で、弱い立場の者を、勝手気ままに「消費」することが、かえって、集団の「利」につながらないという考え方を「選択」したのであろう。
いつ、立場が逆転するかもしれないという権力者の「我がまま」もあったかもしれないが、総力をあげていきついた考え方が(笑)、
人は人をいかなる理由があっても殺してはならない。
その昔、同種の個体を殺しあうのは人間だけで、ほかの哺乳類はそんなことしないのよ、という話をよく聞いたもんだが、今は、否定されている。
よく考えていかなくてはならないことは、今、殺すこと、殺されることが、「身近」ではなく、火星に生物の痕跡が残っているかのかどうかというくらい、遠い距離の話題みたいな感じでいられることを、感謝しなければならないことだ。
さらに、そういう「距離」でいられることよりも、居続けることを、維持することを、力いっぱいに考えなければならないということで、
哲学をもってくるとか、道徳をもってくるとか、そんな軟な話ではなくて、力を抜いていると、いとも簡単に、殺す殺されるの世界が降り注いでくる、
それを実感も、イメージもできない連中だけが、繰り返しぬるい話をしているだけなのだ。
どうして人は人を殺してはいけないの?