A LOST AND FOUND

色々なものを失くしてきたような気がします。

大相撲は、ただただ国技というより郷土愛に爆縮した気持ちが支える日本人力士を応援する源。

gendai.ismedia.jp

 

日本スゴイという「ブーム」が、本当にあるのかどうか日常において実感がわかないんだけれど、星野さんのご意見に物申すつもりはさらさらないし、頭の力量も違うので、そういう意味で取り上げているのではない、と。

実感がないというのは、ある一定の年齢層以外、例えば新聞やらもちろんテレビなど、昔に比べるとほとんど見ていない。その時代の空気を伝えるツールとしては、次第に終焉を迎えている気配すらする。ので、どこで取り上げているのか不明な限りにおいて、日本スゴイを実感できないと思っている。

確かに、大相撲におけるご指摘の通り、日本人力士に対しての声援は、「外国人」力士のそれとは異なっているのは見ていてわかる。

ただ高見山が奮闘していた時期とは、かなり様相が違っていて、さらに大相撲には独特の「部屋制」なるものと相まって、うまくいえないけれど、日本部屋とモンゴル部屋みたいな「ノリ」も感じてしまうのはこじつけか?

軽く言うのは適切ではないけれど、まずは、そういう日本を意識する、純日本なるものに肩入れをしがちなのは、この大相撲においては、高齢者を中心とした層。

さらにこのコンテンツをとても大事にしているのも、こういった層。もっというと、新聞、雑誌、テレビを大事に見ている方々も、この層。

そういう意味で、日本スゴイは、こういった方々に支持されているのではないかと、個人的に思っている。

で、日本というくくりに慣れているかどうかは、明確でないにせよ、ぎりぎり「郷土愛」というものが、とても個人に影響を与えている、人格に寄り添っている感じがするのも、全部ではないにせよ、この層。

よって、見え方は確かに日本スゴイ、日本人応援してしまおう!という風にみえるかもしれないが、実は、郷土愛みたいなノリが基礎にドンとある「身びいき」応援に近い風に感じてしまうのは私だけであろうか?

 

日本スゴイというものが、あるフィルターを通してしまうと、どうも危険な兆候だったり、排外的な面を強調されたり、品格としてあまりよろしくない傾向を言われるが、特に日本は、そもそも日本は、郷土愛に関しては、どこぞの国ではないが、「愛国無罪」に近いノリが、もともと許されてきたんじゃなかろうか?

情報化によって、急速に、物理的な面ではなく、実感として「距離が縮まる」感がある昨今、日本は、そもそも郷土で、単純に「おらが自慢」してなにがわるいんじゃ、という世界で、許していいんじゃないかと思う。

 

「大相撲の起源は芸能であって、つまり被差別民の文化であって、侍文化ではない」ということを言われるが、そういう大上段には似合わないスポーツ。

昔から、異形のものを権力者なりが召して、見世物的なツールとして扱うというのは、テレビを見ていれば、色々と知る場面があるわけで、これが国技として興隆を築いたというのは、あの時は国威発揚だったかもしれないし、というより、何でも国威発揚に使われていたはずだし、これだけではなくて、

これは、NHKさんとか、朝日新聞さんとか、さらにいうと、相撲協会(現)さんの努力の賜物以外にはないと思う。野球だって、「野球道」として、ベースボールじゃないって、よく言われる通り、こういう「要素」が大好きなんだよ、中高年は。

コンテンツとして、ただただ成功した、って、それだけの話だと思うんだけどな。

だめかなぁ。